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死ぬということ

先日のJR福知山線の脱線事故、とうとう死者が75人に達しました。
なんとも痛ましい事件です。
ご冥福をお祈りします。
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一般的には、人が亡くなるということは大変悲しいことです。
なぜ悲しいのだろう、と考えてみたことはありますか?
もちろん、考えたことなんてなくてもいいと思います。
理由がわかったところで、というとこはありますからね。

(※長くなりましたので続きは下からどうぞ。めっちゃ長いですが、面白みのある内容ではありません。すみません。)



人が亡くなると悲しい。
親族や友人、知人が亡くなると悲しいし、
たとえそれに当てはまらなくても、例えば先日のペデルセンの死というのは悲しい。

なぜ悲しいのだろう、と考えてみたことがあります。

死んでしまうということは、当然ながら、もう生きていないということ。
故人の時間は、『死』という絶対的なラインを境にして止まってしまう。
一方、生きている自分の時間は刻一刻と進んでいく。
だから、故人について表現するには、過去形しか使えない。
『彼は~な人だった』とか。
あるいは、推定の形でしか表現できない。
『彼女は~と考えるだろう』とか。
故人について現在形で表現したり(『彼は~な人だ』)
断定表現を使ったり(『彼女は~と考えている』)
ということはできない。
生きている人と死んでいる人の間にある、その明確な境界が、悲しさを喚起させるのかな、と思っています。
その明確な境界から感じる喪失感。それが悲しいのかなって。

上に書いた喪失感ともつながるのでしょうけど、
死んでしまうと、もうその人とは会えない。
ただの『会えない』ではなく、会う可能性はゼロということ。
会えない、ということは、会話することが不可能ということ。
会話できない、ということは、その人の思考というか、感覚というか、それらを感じることができないということだ。
僕にはそう感じられます。
故人の今までの経験について、『今の時点で』どう考えているのか。
故人の身の回りの出来事について、どう感じるか。
昔はどう感じているのか。あるいは、将来はどう感じているだろうか。
もっと昔は。もっと未来では。
そんな、膨大な情報量(?)が失われてしまう。
やはり、喪失感です。

そういった喪失感が、悲しさを生み出すのか、と思っています。

生物は、人間は、死という絶対的なラインから逃れることはできないし、
そのラインは簡単に超えてしまいます。
悲しいことに、それは数gの鉛の塊だったりもするし、数mgの薬品だったりもする。
寿命を全うする場合もあれば、今回の列車事故のように日常生活から突然に、という場合もある。

僕だって、例外ではないわけです。
まだまだ死ぬつもりはありませんし死にたくもありませんが、
こればかりはわかりません。

だからこそ、
僕の考えていることや感じていることは、できるだけ伝えたいな、と思っているところがあります。
会話することを通じて、あるいは何かしらの行動で、『自分の断片』みたいなものを散らばらせたい。
そんな願いがあるのだと思います。
そういう意味で、僕はとても身勝手に生きているな、と思うことがあります。

このブログもその手段の1つという面はあるのでしょうね。
だから、めっちゃ人に伝えたい内容もあれば、しょーもない、しょーもなさすぎる事も書いたりします。
そんな記事の集まりがこの『無駄口』です。
それ以上でもそれ以下でもない、のかもしれません。
もちろん、読んでくれているみなさんにとって楽しんでもらえる内容であれば、という気持ちもありますよっ!

ご来場くださっている皆さん、改めましてありがとうございます。

by sasayanx | 2005-04-26 18:36 | 日々のメモ  

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