自然科学の果て

先日の投稿で、『なぜ夕焼けが赤いのか』について書きました。
僕は某大学院の自然科学研究科に所属する学生でして、いわゆる理系のアタマを持ってるので、こういった内容を調べたり理解したりする努力をするのにそれほど抵抗はありません。
むしろ楽しいぐらいです。

これまで自然科学は多くの発展を遂げてきました。
自然科学(に限った話ではありませんが)を発展させてきた原動力、それは『なぜ』という気持ち。わからないモノを知りたがる欲求だと思います。
しかし、『なぜ』を突き詰めるという行動を続けると、必ず『前提として受け止めねばならない事』に出会います。
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たとえば、『なぜ空は青く、夕焼けは赤いのか』を知りたいとします。
(以下フィクションです。)
まず、太陽光が実は赤~紫の光で構成されている事がわかるとします。
そうすると、空が青い理由は何らかの理屈で青い光が見えているから。
夕焼けが赤いのも赤い光が見えているから。
と説明はできる。
次には、この『何らかの理屈』に対して『なぜ』が発せられます。
その結果、光は波の性質を持ち、赤い光は回折しやすく青い光は散乱しやすいということがわかる。
それによって、『現象を説明できる』度合いはますます高まります。

しかし、『なぜ赤い光は回折しやすく、青い光は散乱しやすいのか』という事はわからない。
(わかっているかも知れませんが、少なくとも僕はわかっていません。)
そういうものだ、そのような性質を持っているのだ、と受け止めるしかありません。
(もちろん、『なぜ』がストップせざるを得ないのは技術的な問題だったりもしますけど。)
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理屈に対する『なぜ』は、もしかしたら全てに答えが出るのかもしれません。
しかし、理屈を説明するコトバは、数々の前提から成り立っていて、その前提を受け入れない限り理屈を説明することはできません
(極端な例ですが、1+1=2であり、2+1=3であり・・・というのを受け入れない限り、僕たちは数と関係を持つ事さえできません。)
いつか、その前提が説明できる時が来るかもしれないけれども、説明できた瞬間にそれは理屈となって、それを説明する上で必要な前提は必ず存在するはず

まさにイタチごっこ。自然科学の空しさを感じてしまいます。

やがて、理屈を構成する前提は受け入れるしかないモノ(=理由)となります。
理由に対する『なぜ』には必ずしも1つの答えがあるとは限りません。
実際に、『~仮説』とか『~論』とかいう名前でたくさんの答えが提示されている状態はよくありますから。
(多くの答えが提示されている中で、どれが正しいか判断できない状態である場合もあれば、究極的な問いであるため検証しようのない場合もあるのでしょう。)

いつか、正真正銘受け入れるしかできない理由に直面することになるのだろうなぁ。

『全てを理解しようと生きること』は決して悪い事ではないと思う。
しかし、そう生きるならば、『全てを理解できるわけではない可能性』を十分に意識しておかなければいけない。
自然界に存在する美しさは、そうやって優しく諭してくれている気もするし、そうやって嘲笑っているようにも思える。

ごちゃごちゃと長くてすみません。
今日もお読みくださってありがとうございます。
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by sasayanx | 2004-10-31 15:43 | 日々のメモ  

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